連載3-36、日本鳩レース界の歴史

欧州の発展 その一
では、ここでレース鳩の発祥の地であり、現在においても最先端の国であるベルギー(一八一五年までは、フランス領南部ネーデルラント。それ以後はオランダ領。一八三〇年に独立)での当時の事情を述べておかなくてはならない。
一七〇〇年代後期になって固まりつつあった血統は、アンベルス種とリェージュ種の二種類じゃった。しかし、この近代鳩の源鳩ともいえる二つの種は、ごく一部の人によって完成され、次第に優れた性能が認識され始めていたとはいえ、ベルギーにおいての普及・流通はまだまだの感があり、その存在を知らない愛鳩家が多かったようじゃ。
これは、新品種として驚くべき形質を持った貴重品であり、所有者は極力、門外不出として、万が一、分譲する場合も、極秘のうちにすさまじい高値で取引していたからであろうのう。
したがって、一八〇〇年代に入っても、投機筋の相場師などを経て、ほんの少しずつ広まり始めた程度であったようじゃ。つまりは、まだ一般的ではなかったのじゃ。
投機筋でハト通信が盛んに使用されるようになるのは、一八〇二年頃からとされておる。前回にも記したロスチャイルド氏によるワーテルローの戦勝を鳩が伝えた一八一五年より、十三年も以前のことじゃ。
南部ネーデルラント(後のベルギー)のアントワープ地方の相場師たちは、株の高低を迅速に知るために、毎日、鳩をブリュッセル、ロンドン、パリに輸送しておった。鳩の飼育者たちは、この機を巧みに利用し、訓練した鳩を高値で貸与したり、売却しておった。種類としては、まだスミテル種という種が多かったそうじゃ。
組織的な鳩の訓練が、世界で初めて行われたのはベルギー(当時はフランスが支配する南ネーデルラント)のリェージュの愛鳩家のよってのことじゃ。一八一一年、ローヌの海岸から放鳩し、帰還した鳩たちは、町の楽隊のよって祝福されたそうじゃ。
このリェージュの東部の街の愛鳩家たちは、一八一八年(この時期はオランダ領)に一つの競翔団体を組織し、一八二〇年にパリから鳩レースを行ったのじゃ。
はじめ、鳩は馬車の中へ収容されて送られたが、間もなく籠を運搬人の背に託して、放鳩地へ運ばれることになったようじゃ。運搬人は一日三〇キロから四〇キロを歩行したというから、大変じゃのう。汽車に積まれて輸送されるようになったのは、一八五八年からじゃった。
一八二〇年頃は、他にも各地で鳩レースが開始されておる。アントワープ市の人々がプチー・ブーラン種(スミテル種の原種)、キュミレットの一種などを使って行い、さらには同地の有産階級の愛鳩家は、クール・ベック・リェージョア種を使い、集団訓練を行っておる。このグループは、一八二六年にパリからのレースを開催。1羽が当日帰還したそうじゃ。
おっと、頁がなくなってきたわい。この続きは、次回に譲るとするかのう…。