連載3-32、日本鳩レース界の歴史
国内への渡来 その十六
さて、前回は「大坂冬の陣・夏の陣」の話じゃったの。徳川方の攻城軍の多さに、さしもの大阪城も落城し(1615年)、豊臣家は滅ぶことになった。その後、徳川家による太平の世が始まる。ここで、無資料時代の鳩界史は、一応、終了することになるのじゃ。
わしは、諸外国におけるハト通信の実用の実態と、それら諸外国との交流の関連、また鷹狩りのからみにより、この当時の鳩の歴史を推測してきたわけじゃ。
ずいぶんと手間もかかり、回り道もして紙数を重ねたが、わしの、この新しい無資料時代の歴史の組み立ては、客観的な見地からも、多少の同調を得られるものではないかと、自負しておる。
幾つかの戦争に伝書鳩の存在の可能性を挿入する冒険も、あえて行ってみたが、様々な条件や前後の経緯を総合してみると、さほどの無理はなかったと自画自賛しておるぞ。
例え、有名な合戦で鳩が主要な任務を果たしていたとしても、成功した側としては、鳩が務めた特殊な役割は、なるべく秘匿しようとしたじゃろう。ゆえに、人目につくこともないのう。戦記物を得意とする小説家も、その内面を看破できなかったのではあるまいか?
資料もなく、また創作を得てとする小説家でも気づかなかったものを、歴史家が着目するはずもなかろうて。
いずれは、ユニークな小説家が取り上げて、前例のない戦記物を書き、歴史に残る大合戦の勝敗が、実は伝書鳩に依存するところが多かったなどということにでもなれば、我々のアイドル、レース鳩の名誉はいかばかりかと思うのじゃよ。ホッ、ホッ、ホッ…。
では、次の時代じゃ。一六〇三年、徳川家康は、江戸に幕府を開いたのう。
やがて幕府は、産業経済の促進に本腰を入れることになるのじゃが、その一環として、通信機関としては、飛脚の制度を整えたのじゃ。
幕府は、文書や荷物を宿継ぎで送る継飛脚(つぎびきゃく)を設けたが、大名の中にも、江戸と領地を結ぶため、専門の飛脚(大名飛脚)を設けた者もおった。また、民間にも町飛脚ができ、一六六三年(寛文三年)、大阪・京都・江戸を結んで、飛脚問屋が営業を始めるなど、各地方に、次々と通信連絡網が広げられていった。
じゃが、鳩を通信手段として使用したという史実は登場せぬ。これは、ハト通信が隆盛を極めつつあった諸外国との交流が、極度に狭められたことに起因するかもしれぬ。
一六三五年、日本人の国外への渡航と帰国が禁じられ、鎖国が始まり、三年後、ポルトガル人の来航・居住の禁止令、ついには欧米などとの交流は、長崎の出島に移されたオランダ商館のみとなってしまった…。
おっと、今回はここまでのようじゃ。では、この続きは、次回に語るとするかのう…。
(この稿、続く)