連載3-24、日本鳩レース界の歴史
国内への渡来 その八
通信を目的としたハトじゃが、日本に渡来する以前から、国内においてもハト類(キジバトなどの野生のヤマバト)を使って、いわゆるお使いバトとして遊ぶことはあったようじゃ。しかし、それらのハトを使い、通信を目的とするハトを作り上げることはしておらぬ。
四世紀末、当時は倭国であった日本が、朝鮮半島の三韓に侵攻すると、それら各国がハトを通信に利用していることを知り、これを導入することとなった。これらのハトは、日本には生息しないカワラバトに改良を加えており、現在のドバト程度の性能に訓練を加えたものであったろう。年代的には、古墳時代中期の頃じゃ。ちなみに、忍術も同じ頃に渡来したと思われる。
西暦538年頃に、百済から仏教が伝わったとされておるが、仏教には、殺生戒(せっしょうかい)に由来して、魚や鳥を自然界に放す放生会(ほうじょうえ)という儀式があり、仏教につきもののハトが主として、これに使われるため、野生のハトではなく捕獲に便利なイエバト(ドバト)が、半家畜的な飼育方法のもとで管理されるようになったのじゃろう。なお、放生会は572年に即位した敏達天皇によって始められたとされておるぞ。
587年には、蘇我馬子によって物部氏が滅ぼされておる。蘇我一族は、仏教文化の強い推進者で、ハトとも縁をもっておる。蘇我氏は物部氏との一戦において、ハトを有効利用して勝利したのじゃろう。もともと、軍事面を担当しておった物部氏じゃったが、新戦術の前に、あえなく敗北を喫したのではないかのう。
当時は、朝鮮半島や中国からの帰化人が、新しい文化や技術を持ち込んだ時期じゃった。戦いは、いつの世でも一足先に新兵器や新戦術を編み出した方が勝ちであるのじゃ。
中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が図って、蘇我氏の勢力を駆逐した「大化の改新」(645年~)のための争いにも、天武天皇となった大海人皇子が吉野で兵を挙げ、近江に攻め入って大友皇子を破った「壬申の乱」(672年)においても、ハトとタカの利用合戦が繰り広げられたに違いないじゃろう。あるいは、このどちらかの戦いが、ハトとタカの最初の空中戦になっておったかも知れぬ。ちなみに、「鷹狩り」は仁徳天皇の昔から始められておったのじゃ。
つまりは、ハトによる通信は奈良時代以前の古代から、すでに芽生えており、時によっては、通常時の連絡や戦時の通信に使用されておったと考えられるのじゃ。
鷹狩りの技術が未熟じゃった「壬申の乱」以前には、かなり有効な通信手段として使われたに違いなかろう。このハトを使った戦法は、当時、相当にもてはやされたと思われるぞ。それに伴い、大陸からの良い種の導入にも努めたことじゃろう。
おっと、頁がなくなっておった。ではこの続きは、次回に語るとするかのう…。
(この稿、続く)