連載3-17、日本鳩レース界の歴史
国内への渡来 その一
日本で伝書する鳩を確かに飼養していたとする証拠となるものは、17世紀半ば(江戸時代、3代将軍家光の治世)に描かれたといわれる「長崎出島絵図」が最古であろうのう。偶然にも、わしがこの絵の中に、オランダ商館の庭にある2つの鳩小屋をみつけたのじゃ。これは、治外法権下の飼養であるがのう。
これ以前には、確たる証拠がない。
じゃが、わしは、証拠がない、つまり史実にない空白を埋めてみたいと考えておるのじゃ。資料のない空白の部分に歴史を作って想定してみようとするのは、興味をそそられる作業ではあるが、なるほど史実にはないが確かにそうであったかもしれない、という共感を皆に与えるには、それなりの根拠が必要となるので大変なことじゃ。
幸いにして、伝書鳩の歴史を真面目に研究した学者は、歴史学の上でも考古学の上でも皆無じゃ。そんな研究をして本を書いたところで、売れるはずもないし、世間の耳目も集めないからじゃろう。専門家がおらぬということは、いってみればわしが専門家であろう。資料がない点は参ってしまうが、逆に書きやすい面もあろうかと思うぞ。
そこでわしは、なるほど資料の上では確かに、江戸時代以前に伝書する鳩の登場はないが、その時代以前にも飼養されたことはあり、それが実際に使われたこともありうる。そのあたりから、考察してみようかのう。
第一には、伝書する鳩が導入されてしかるべき素地が、太古からあったということじゃ。ここで改めていうまでもなく、古墳時代の昔から明日香、天平、藤原と文化が次第に進展する間、カワラバトではあったが、すでに神社仏閣という聖域を彩る瑞鳥として、これに随伴しておったし、そのカワラバトが帰巣性を持ち、使いをすることも知られていたことは、詩歌をはじめとする文献上にも表れている。
カワラバトの日本への初めての渡来について、わしはすでに、通説によって仏教の伝来の時期と述べておいたが、これは紀元前200年頃の稲作の伝来とともに、インド、中国、朝鮮の経路で入っていたかも知れぬし、北方騎馬民族を祖先に持つといわれる大和政権の国内統一に、鳩が何らかの形で一役買っていたかも知れぬのう。
それが、仏教の伝来で積極的な流入につながったとも思える。
仏教伝来の初期、6世紀の末に蘇我氏と物部氏との勢力争いがあったのう。それに勝利した蘇我氏の一統は、鳩と縁の深い仏教文化の強い推進者じゃったが、あるいは鳩の威力を最大限に活用しての勝利であったかも知れぬ。一方、敗北した物部氏の一統は、主に地方へ分散したが、その中には、氷川神社を創設し、鳩との縁を持つ一統もあったのじゃ。
おっと、頁がなくなったようじゃ。では次回、この続きを語るとするかのう。
(この稿、続く)