趣味のピジョンスポーツ 第16回「レース鳩は、自分の困難な状況を励ましてくれる」 渡部典一鳩舎

震災で生き残った親仔の孫鳩を手に。鳩舎前の渡辺さん
今回、ご登場いただくのは、福島県で鳩飼育を楽しむ渡部典一さん(62歳)。賛助会員として、20年度の『八郷オータムカップ200K』で第7位を獲得。国際委託鳩舎シリーズにおいて、初のベストテン入りを果たしました。元々は、当協会の連合会員として鳩レースを楽しんでいた渡部さんですが、東日本大震災に伴う原発事故で、環境が一変。避難所を転々とする生活を余儀なくされます。安定した暮らしさえままならぬ厳しい状況の中、鳩を飼育し続けたその強い思い、そして ピジョンライフとは…。

福島県浪江町で農家及び畜産業を営んでいた渡部典一さん(62歳)の暮らしが一変したのは、2011年3月のことでした。あの東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により、渡部さんが暮らす町に避難指示が出されたのです。

「とにかく突然のことでしたから、飼っていた家畜の牛、そしてレース鳩もそのままにして、着の身着のままで避難しました。新聞は届かない上、電気も止まっていましたからテレビなども見ることができず、情報はラジオ放送だけ。当時は、本当に不安でしたね」(渡部さん)。

渡部さんが鳩を飼い始めたのは、小学校の低学年の頃。当時は折からの鳩ブームの時代。親戚の叔父さんが鳩を飼育しており、それを見ている内に鳩が飼いたくなったといいます。叔父さんに半坪ほどの小さな鳩小屋を建ててもらい、2ぺアのつがいの鳩を譲って貰ったのが、現在につながる鳩人生の始まりでした。

「当時は鳩を放して、自分の小屋に帰ってくるのを見ているだけ。それがたまらなく楽しかったですね」。

渡部さんは中学生になり、部活動が忙しくなったため、鳩飼育を中断。大学を卒業後、畜産関係の法人へ就職するため上京。30代後半で、家業の農家を継ぐため、帰郷し、それまで行っていた農作物の生産に加え、和牛の繁殖業も開始。再び鳩を飼い始めたのは、この頃だといいます。

「たまたま、行きつけの日本料理店のご主人が、鳩を飼っていたんです。奥さんが僕の中学校時代の同級生だったこともあり、自分も昔、鳩を飼っていたから、話が盛り上がってね。『(自分の所属する)連合会に入らないか』って誘われたんですよ」。

早速、自宅の敷地に1坪ほどの鳩舎を自分で建設し、当時の福島東部連合会(後に福島浜連合会)へ入会。小学校の頃の記憶を辿りながらの鳩飼育再開でしたが、誘ってくれたご主人が30羽ほどの選手鳩を譲ってくれ、飼料の買い入れ先も紹介してくれたといいます。

「再開当初は手探り状態。連合会の仲間にずいぶんと手伝ってもらいました。覚えているのは、仕事柄、比較的時間に自由が利くため、ずっと飼っている鳩を見ていたこと。とにかく鳩舎に鳩を馴らすのが大変でしたね。あと猛禽類が多い地域だったので、舎外の時に花火を使うなどして、被害に遭わないように工夫していましたよ」。

福島浜連合会員時代には、桜花賞900Kで連合会優勝を獲得といった活躍もあり、仕事に鳩レースにと、順風満帆な生活を送っていた渡部さん。しかし2011年3月11日、あの大災害によって、全てが一変します。

「(東日本大震災の時は)すごい衝撃でした。驚いた牛たちが、すごい勢いで吠えるように鳴いていたことを思い出します。山間部に住んでいたので、津波の心配はなく、家屋や飼っていた鳩も無事だったので、当初はそれほど心配していなかったのですが…」。

比較的、被害が少ないように思われたのも束の間、全く思いもしない災害の第2波が襲い掛かってきます。それが福島第一原子力発電所の原発事故、いわゆるメルトダウンでした。

「住んでいる地域が、避難区域に指定されたんです。訳も分からないまま、身一つで逃げなければなりませんでした」。

放射能という目に見えない災害のせいで、全てを捨てなければならない理不尽さ。当時は『これからどうなってしまうのか?』という不安と『どうして、故郷を離れなければならないのか?』といった納得できない思いが交錯したといいます。しかし、自宅はもちろん仕事も生まれ故郷さえも失い、避難所、仮設住宅と転々と住居を変えなければならない絶望的な生活のなか、渡部さんは一つの光明を見出します。

「避難後に一度、自宅に戻り、家畜が餓え死にしないように、牛舎と鳩舎を開け放したんですよ。その後、しばらくして一時帰宅が許された時、鳩舎を覗いて見ると、親鳩とヒナが逃げずに生き残っていたんです。そのトリたちは、震災前に配合していた親鳩と生まれたばかりのヒナ。まさか生きているとは思わなかったので、心打たれるものがありました」。

どのような過酷な状況でも、生き抜こうとする生き物の強さ。それを目の当たりにして、励まされたという渡部さんは、仮設住宅の一角に小さな鳩舎を建てて、その鳩の親仔を飼育し始めました。

「幸いにも、ペットを飼うことが許されていたので。所属していた連合会も解散を余儀なくされており、もう2度と鳩は飼えないと思っていたので、本当に嬉しかったですね」。

一時は絶望の淵へ追い詰められていた渡部さんですが、途切れずに当協会の機関誌『レース鳩』が届いていたこともあり、再び、鳩レースへの情熱を取り戻します。震災から4年後、「委託ならばレースも可能」と考え、賛助会員として当協会へ再入会。徐々に種鳩も増やし、毎年5羽程度を国際委託鳩舎に委託し続けました。

そして、再開4年目となった一昨年、ついに「20年度八郷オータムカップ200K」第7位に入賞し、国際委託鳩舎レースで、初のベストテン入りを果たします。

「初めての上位入賞でしたが、短距離でしたからね。これが500K以上のレースなら、もっと嬉しかったかな(笑)」。

現在は、避難指示も解除され、生まれ故郷の復興住宅へ移り住んでいる渡部さん。現地の復興・復旧は道半ばであり、元の生活に戻れる日はまだ遠いようですが、鳩飼育を支えに日々頑張っていらっしゃいます。

「細々とですが、鳩を飼い続けていられることに喜びを感じています。委託した鳩たちは、順位に関係なく帰還して欲しい。レースの途中で挫折することなく、帰ってきてくれる鳩たちにならって、自分も地道に人生の困難に立ち向かっていきたいですね。鳩さえ一生懸命に生きようとしているのに、人間が頑張れないはずがないですから!」。

一人では立ち向かえないような困難な状況に追い込まれた時、人は心が折れてしまうもの。震災から間もなく10年、いまだ厳しい現状ですが、渡部さんはそのピジョンライフを通じて、鳩から生きる勇気をもらったようです。

渡さんに生きる希望を与えた親鳩(上)と成長したヒナ鳩(下)。当時、暮らしていた仮設住宅にて撮影

前へ

連合会便り 伊万里連合会(西九州地区連盟)

次へ

連載2-60、種鳩導入を考える その三