趣味のピジョンスポーツ 第31回「鳩への愛と優しさに満ち溢れた暮らし」 渥美富彦鳩舎
「レースに参加しているのは、全て石巻連合会の新田孝揮さんが作出したヒナ。一度、鳩飼育を断念したのですが、おかげで今も鳩レースにかかわることができています」。
こう話すのは、宮城県で建設会社を経営する渥美富彦さん(63歳)。今シーズン、八郷国際委託鳩舎において、国際ウィナー300Kの優勝を含み、2羽で4度の入賞を獲得されました。見事な成績を残された渥美さんですが、その要因はどこにあったのでしょうか。
渥美さんと鳩の出会いは、小学5年生の時。傷ついた鳩を引き取ったことだといいます。
「近所に狩猟が趣味の方がおられたのですが、ある時、銃で撃たれて傷ついた鳩を保護して。脚環が付いたその鳩を見て『可哀そうだから、飼ってあげたい』という気持ちになり、譲ってもらったんです」。
「傷ついた鳩を助けたい」という思いで飼い始めた鳩。それはやがて「鳩レースをしたい」という思いに変わっていきます。そして高校生の頃、日本伝書鳩協会・石巻支部へ入会。本格的に、鳩レースの道へと足を踏み入れました。
「同じ会の先輩に鳩のイロハを教えてもらい、手探りで鳩レースを学びました。一生懸命に頑張ったけど、短距離レースしか帰せなかったなぁ」。
家業の建設会社に就職し、社会人となった後は当協会の石巻連合会へ入会します。
「最高成績は、400K連合会2位。まだ時計の時代で、鳩が鳩舎に帰ったらブザーが鳴るようにしていたんですよ。ところがその日に限ってブザーが壊れて、いつの間にか鳩が帰ってて(笑)。慌てて時計を持って行ったら2位。差は僅かだったから、ひょっとしたら優勝できていたかも。悔しい思い出ですね(笑)。当時は750Kまで帰したことがあるけど、900K以上はダメ。長距離レースを帰すことが夢でした」。
20代の青年期、鳩と共に歩んでいた人生ですが、30代半ばに転機を迎えます。家業の建設会社の代表だった父親がリタイヤ。渥美さんが跡を継がなければならなくなりました。
「忙しくなり、満足なレースができなくて。飼育を断念しようかと思ったけど、飼っている鳩たちに愛着があって、踏み切れなかった。それで『委託レースならできるかな』と」。
その後、連合会を退会し、賛助会員へ。仕事への負担が少ない委託レースで、渥美さんは鳩飼育を続けることになります。ところが、今度は別の問題が浮上することに…。
「鳩舎が、蛇に襲われるようになって。何度も駆除しましたがダメ。親鳩は怖がるし、卵は取られるし、どうにもなりません。生まれたばかりのヒナが襲われるのが、可哀そうで仕方がなかった。それで飼育を断念したんです」。
種鳩を全て人に譲り、大好きな鳩を飼えなくなった喪失感を抱きながら、暮らしていた渥美さん。元の連合会の仲間で、行きつけの床屋の店主だった前述の新田さんに、つい愚痴を漏らしたところ、思わぬ助け舟を出してくれたそうで…。
「事情を聞いた新田さんが『自分が作出した鳩で良いなら、委託レースをしてみたら?』と言ってくれたんです。本当にありがたいこと。それから毎年、新田さんが作出したヒナを4羽ほど選ばせてもらい、国際委託鳩舎に委託しています。選ぶ時、血統はわかりません(笑)。見た目で、胸高のスピードバード系のメスっぽいトリを選ぶようにしています。インスピレーションですね。まあ、成長後に見たら、全然イメージと違う場合も多いですけど(笑)」。
その後、14年には八郷国際ダービー400Kで第2位に入賞。そして今シーズン、2羽の入賞鳩(200K第7位・300K優勝、300K第5位・700K5位)が誕生し、新田鳩舎作・渥美鳩舎委託のコンビで、ブレイクしました。
「初めての優勝ですから、そりゃ嬉しかったですよ。新田さんの作った鳩が素晴らしかったということでしょうね。700K5位のトリは相談の上、種鳩として引き取りました。長距離を帰すのは夢でしたが、せっかく頑張ったのに落ちちゃうのは、可哀そうだから(笑)。来年以降、その直仔で900Kを目指します!」。
「鳩レースを続けられるのは、新田さんのおかげ」と感謝を述べる渥美さんですが、実は自鳩舎に2羽だけ、レース鳩を飼っているのだとか。
「観賞用に2羽のオスを飼っています。作出せず、ただ眺めているだけ。子供の頃からずっと飼っているから、私にとって鳩は家族のようなもの。傍にいるだけで安心なんです」。
この時、ふと子供時代に保護した鳩のことが気になり聞いてみると、次のような答えが…。
「保護してから10年間ほど、元気に生きていましたよ。最後は、穏やかな表情で天寿を全うしました」。
子供の頃から変わらない鳩への愛情、優しさに満ち溢れたピジョンライフを送っている渥美さん。これからも愛する鳩と一緒に、素晴らしい人生を送って行かれることでしょう。