趣味のピジョンスポーツ 第15回「夢とロマン、鳩レースは人生の生きがい」 新津光昭鳩舎
「私の住んでいる地域は、雪深い山間部。一度、急にレース中に雪が降って、周辺の鳩舎は1羽も帰還しませんでしたが、後日、私の鳩だけ帰ってきたことがありました。降雪のため、レース不成立だったので成績は残りませんでしたが、1羽だけ帰ってきたくれたことが、ほんとうにうれしかったですね」。
長野県で通信機械の製造業を営む新津光昭さん(71歳)は、こういって自身で鳩レースを行っていた日々を振り返ります。
子供の頃から、ウグイスやツグミといった野鳥を餌付けして馴らしていたそうですが、鳩を飼い始めたのは中学生の頃。近所で鳩飼育をしていた方に数羽を譲って貰い、作出や舎外を楽しんでいました。当時は90センチメートルほどのリンゴ箱鳩舎で、5羽程度を飼っていたそうです。その後、高校生になり「鳩レースをやってみたい」と考え、日本伝書鳩協会の諏訪支部へ入会します。
「当時の会員の平均年齢は、30代から40代。学生でしたが、レースに年齢は関係ないから楽しかったですね。ある時、600Kレースの持ち寄りで、ベテラン会員から『このトリはダメだ』と言われた鳩が当日帰還で入賞。この時、『鳩は本当にわからない。だから自分の目を信じよう』と強く思いました」。
その後、地元で就職した新津さんは、自鳩舎の敷地が使用できなくなったこともあり、一時的に鳩飼育を中断。再開は、独立して会社を立ち上げた35歳の頃、諏訪支部に再入会し、会社の工場の敷地に鳩舎を建てました。以前から鳩飼育を復活したいと考えており、地元の愛鳩家の皆さんとは交流を持っていたので、再開はスムーズだったといいます。
「この頃の一番の思い出は、先ほど述べた雪の中のレースで、唯一羽帰りを果たした鳩のこと。黒ゴマの小ぶりなトリでした。記録としては残りませんでしたが、今でも記憶には残っています」。
しかし、新津さんが鳩舎を構える地は、猛禽類の巣窟。一回の舎外で、ほとんどの鳩が失踪してしまうほどだったといいます。秋のレース参加さえままなりません。被害を少なくするために様々な工夫をしましたが、どうにもならず、5、6年で再びレースを中断してしまいます。
鳩への情熱をくすぶらせたまま、年月を費やした新津さんが、もう一度、鳩飼育を目指したきっかけは、当協会の八郷国際委託鳩舎の設立を知った時だといいます。
「委託というシステムならば、鳩レースができるのではないかと希望を持ちました。それで鳩レース協会の会員さんにお願いして、作出した鳩を国際委託鳩舎レースで飛ばして貰っていました。あと、レースマンの憧れである『東日本チャンピオンレース』に参加できるのも魅力的でしたね」。
2000年代に賛助会員のシステムが創設されると、すぐさま入会。現在に至ります。これまで様々な好成績を残していますが、最も目立った活躍は、13年の「八郷国際サクセス200K第9位」、「八郷国際ダービー400K第6位」、「八郷国際親善鳩レース大会500K第2位」の3レースでシングル入賞、そして昨年の「八郷オリエンタルカップ700K第5位」です。
「国際委託鳩舎レースでは毎レース、リアルタイムで序列が表示されるパソコンの画面にくぎ付けとなっていますが、この時は本当にびっくりしました。このトリは協会種鳩として買い上げて頂きました。昨年の八郷700K5位のトリは、初めて配合したペアの一番仔。それでこの成績でしたから、ますます『鳩は夢を見させてくれる存在』との思いを強くしました。東日本CHに挑戦したかったのですが、中止のためやむなく引き取り、種鳩にしました。鳩作りでは、とにかく猛禽類から逃げ切れるように、小ぶりでスピードの出るような体型のトリを目指しています。」。
昨年の八郷700K入賞鳩の直仔で、再び東日本CHレースに挑戦したいと意気込む新津さん。その鳩への情熱の源とは…。
「私は鳩を飼うこと自体が好きなんです。子供の頃から、自分が作出して育てた鳩が遠くから帰ってくることに、ロマンを感じていました。頑張って飛んで帰ってくる姿は、マラソンランナーにも似ていると思います。それもあって、レースでは東日本チャンピオンレースやグランドナショナルレースといった長距離に挑戦することが夢。私にとって、鳩レースは人生の生きがいですよ。今では、国際委託鳩舎レースなどで好成績を残すと、家族も喜んでくれています。最近、妻や子供が鳩飼育を手伝うというのですが、冗談じゃないと断っています。だって、私の人生の楽しみを奪われたくないですからね(笑)」。
夢とロマン、そして家族との円満なピジョンライフ。新津さんにとって、まさに「鳩は人生の全て」と言っても過言ではないのでしょう。