連載3-31、日本鳩レース界の歴史

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このコーナーは、会員の方からの寄稿や過去に掲載された本誌の記事を元に、伝書鳩及び鳩レースの今昔を鳩仙人の語り口で掲載します。本稿は本誌で連載された「日本鳩界の歴史」(81年4月から連載)を引用・改編しています。

国内への渡来 その十五

昔から、目視できる距離や位置にあっての信号としては、手振りがあり、相手が見えない距離になると、太鼓などの音や狼煙に頼ることとなろう。さらに、長距離の場合には人の足や馬によらなくてはならなかった。

ギリシャのマラトンでの戦いにおける、戦勝を伝えた42.195キロの人力による走行は、その代表事例じゃ。これは、現在のマラソン競技の距離でもあるのう。

天下分け目といわれるほどの関ヶ原の合戦でも、ハトの利用は表面化しておらなんだ。頼った手段は、何千年もの以前から、人類が使い続けてきた狼煙でしかなかったのじゃ。

しかしわしは、当時の武将たちが、伝書するハトの存在を全く知らなかったとは思わぬ。

スピードを要求される近代マラソンにおいて、42.195キロの世界記録は、2023年10月8日、第45回シカゴマラソンで、ケニアのエリウド・キプチョゲが記録した、2時間35秒であるのう。

江戸時代の創生期の頃、忍者の走行スピードがどの程度であったかは正確でないにしても、1時間で20キロ以上走れたとは思えんのう。今のレース鳩ならば、分速1000メートルでも、1時間で60キロ、風に乗って2000メートルが出れば、120キロものスピードが出るぞ。

当時のハトでも、人力の数倍以上のスピードを持っており、いざとなれば、恐るべき力を発揮するくらいの認識は持っておったろう。とくに、すでに甲賀や伊賀に手練れの忍者群も発生しており、秘密の通信手段にしておらなんだとも限らんぞ。

やはり、関ヶ原の戦いでも、鷹匠を引き連れた武将も、かなりおったであろう。こうした背景があったればこそ、事実上、あるいは表面上、ハトが通信連絡用に登場する機会はなかったのではなかろうか。

六十五万石の一大名に過ぎなかった豊臣家の十年後の最後の戦い、大坂冬の陣・夏の陣においては、どうじゃったかのう。城塞にこもっての戦いじゃから、ハトが利用できるチャンスでもあると思わぬか。

色々な記録を見る限り、大阪城内にハトの飼育はなさそうじゃ。ところが、冬の陣・夏の陣の二度にわたる大決戦の主任参謀は、かつて信州上田の小城で、数万の徳川秀忠勢をさんざん悩ませた、知将・真田幸村であり、幸村はその後、紀州・九度山にあって、忍術もどきの修練の日々を送っておったようじゃ。

数倍の攻城軍を相手に、奇襲戦法を繰り返して、ついに冬の陣において徳川軍を撃退した戦技の裏には、伝書鳩の果敢にして隠密な活躍があったかもしれぬぞ。

では、この続きは、次回に語るとするかのう…。

(この稿、続く)

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