連載3-13、日本鳩レース界の歴史
日本への伝書鳩の渡来 その三
中国大陸における文献の話の続きじゃが、次は「八間通志」という書物によると、「鴿の性質は、はなはだよく人に馴れ、よく飼い主の居を認めて帰る。舶人(船員)はこれを篭に入れて海に出る。必要あれば、書信を脚につけて放つ。よく家に帰る。ゆえに別名を『舶鴿』ともいう」とあるぞ。
さらには宋の時代(11~12世紀)を記述した「宋史」によると、仁宋の頃のこととして「家鴿100余羽を放して、一軍を窮地から脱出させた」との一文が見られる。
中国には「太古から真孔雀を城塞間の連絡に使用していた」という伝説もあるくらいじゃから、鳩の飼育や馴致させて利用する程度の技術は、朝飯前に習得していたはずじゃ。
ただ、それは個々の人間の技術であり、それが組織的にあるいは伝統的に引き継がれて積み重なっていく、というところまでは到達していなかったようじゃ。
しかしながら、その個人プレーの見事さは、その後数百年を経過した18世紀に、清の人である張万鐘によって編集された「鴿経」の中に出てくるぞ。
「鴿経」では、鳩と鴿とを明確に分類し「鴿には花色種として30種、翻跳種として5種、飛放として6種」と細分しておる。だが、惜しむらくは、伝書鳩に当たる「飛放」の特別な紹介はなく、通信という実用面で特記するほどの性能の持ち合わせがないままに、通信に利用できるという解説が加えられない状態の鳩であったと思うのう。
まあ、「飛奴6種」の中に「夜遊」と名付けられた1種があって、夜間飛翔が可能であったらしいことはさすがじゃが、これも「夜に遊ぶ」という名の通り、夜間通信できる鳩といた進んだものではなく、夜間に鳩の体に鳩笛などを装着し、鳩小屋の上空を旋回させて、金持ちたちの夜遊びに興を添えた程度じゃ。なお、花色種と翻跳種は、観賞用の鳩じゃ。
動物の飼育を得意とする中国人が、現在に残るような優秀な伝書鳩の血を創り得なかった(あるいは継承できなかった)のは、考えてみると、他に理由があったのかもしれぬのう。
その理由を考える場合、おそらく鳩を組織的に通信に使用することに気づかなかったためではなく、使用することを好まないというような国民性が介在するのではないかのう。
中国では紀元前から、儒教の道徳観念がある種の国民性を作り、やがて仏教の思想が流入。これを浄化し、やがて一体化して高めたという歴史がある。これはヨーロッパや西アジアと全く違う思想じゃが、ここからくる感情が鳩を瑞鳥として尊崇し、戦争の道具として情報収集などのスパイ活動に従事させることへの忌避となって表れたのではないかのう。
こう考えると、カワラバトの原棲地でありながら、中国大陸では伝書鳩の組織だった改良や通信目的での実用的な使用が、大幅に遅れた理由がわかるような気がするのう。
では次回、この続きを語るとするかのう…。
(この稿、続く)