連載3-30、日本鳩レース界の歴史
国内への渡来 その十四
1500年代。これはヨーロッパにおいて、伝書用のハトの改良が、著しく進歩した時代じゃった。
前半には「ペルシャン」と呼ばれる品種が隆盛を極め、中盤以降になると、オランダ人が新たに、バグダッドから「バグダッテン種」を導入して、さらに進歩の度合いを深め、イギリスでは「ペルシャン」の直系の組み合わせによって、「イングリッシュキャリー鳩」と称される、ハトたちの完成を見るに至った訳じゃ。
とくに、「バグダッテン種」の出現は、誠に劇的じゃぞ。
それは、オランダの独立戦争(1573年)の際のことじゃった。その時、ハーレムとレイド両都市の要塞は、落城寸前であった。これを救ったのは、オランジュ公ウイリアムの信書を運んだハトじゃ。
オランダ人が、最初にバグダッドから輸入した「バグダッテン種」は、見事に両要塞に送られ、2時間ほどの距離に進んでいた増援軍を知らせる役目を果たしたのじゃ。
戦後、ウイリアムは国書をもって「ハトを飼育すべし」と命じ、この時、功績をあげたハトの死後は、はく製にしてレイド市役所の楼上に安置したというぞ。
これらに比べ、同時代の日本における伝書鳩の存在は、誠に希薄であった。
幾度か、外国から導入する機会があったものの、改良の過渡期にあって、まだ品種が完全に固定していないハトを、気候風土の面において恵まれず、飼育技術の未熟さが抜けきれない日本においては、目覚ましい活躍も期待できなかったし、逆に、不倶戴天の天敵ともいえるタカ類の跳梁跋扈する自然界からの圧力もあったろう。武将たちが常備しておった、鷹匠陣が、これに拍車をかけたのじゃ。
「ハト派とタカ派」のたとえは、単におとなしい鳥と猛々しい鳥の対比だけではなく、ハトとタカの宿命的な対立関係が表現されておるのじゃ。
日本における1500年代の伝書鳩の存在は、まさに、このような悲劇的な環境の中にあったともいえるのう。ごく一部において、例外はあったとしても、おおむねタカたちが制空権を支配した時代じゃ。そのため、ハトによる通信は、ほとんど忘れ去られておった。
1600年におきた、関ヶ原の戦いでも、急を要する情報伝達は、この頃から行われはじめた、手旗による文字・数字の表現で、遠距離は狼煙じゃったろう。
今でも、米原には「関ヶ原流星」といわれる狼煙の一種と保存会があるが、関ヶ原の戦いで使用した名残りじゃというぞ。また同様の狼煙の保存会は、今も国内に6か所ほど現存しているそうじゃ。
では、この続きは、次回に語るとするかのう…。
(この稿、続く)