連載3-29、日本鳩レース界の歴史
国内への渡来 その十三
さて、前回の続きとなるが、一五七五年(天正三年)、徳川家康の武将・奥平貞昌が守る長篠城を武田信玄の子・勝頼が囲んだ時の事じゃ。
自軍の三十倍にもなる敵兵に囲まれた城中から家康と連絡を取るべく、鳥居強右衛門が夜中の警戒網を突破して脱出に成功。再び城中に入ろうとしたが捕われ、磔死したことは有名な話じゃが、これは徳川方が伝書鳩を利用していなかったことの証であろう。
戦国時代は、見方によっては豊かなロマンに溢れた時代であった。戦記物は非常に多く伝えられておるが、どうもハト通信につながるようなものがないのじゃ。前回の項で挙げた例の様に、むしろ否定的な材料の方が多くなっておる。
じゃが、そのような中でも一つだけ、希望をつなげるものがあってのう。それは、あの有名な「桶狭間の戦い」なのじゃ。
一五六〇年(永禄三年)、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれるが、これは織田・今川の両軍が四つに組んだ遭遇戦ではなく、今川軍の行軍の途中を織田の小軍勢が急襲した奇襲戦じゃ。
織田信長にしても、今川の本軍が、どこを通ってどこで休止するかなど、全くといっても良いほど不明であったようじゃ。その上、今川軍側は前衛部隊や斥候、見張りなどを先行させながらの慎重な進軍であったろうと思うぞ。
そこを見事に今川の本軍の位置を探り、全く気付かれずに急襲できたのは、織田方に何らかの確信があったからに他ならないであろう。では一体、その確信に至る材料は、どのようにして手に入れたのじゃろうか。わしは、単なる物見による報告だけではないように思うのじゃ。
物見の騎兵による報告よりも、もっと迅速なもの。すなわち、ハトじゃ。
信長の配下には、すでに、後の秀吉となる木下藤吉郎もいた。藤吉郎には、地元の土豪か野武士あがりである蜂須賀小六の一統がついておった。地元の武士ならば、ハトを使うにしても容易であったじゃろうし、プライドも高くないため、すでに伴天連の秘法などといわれ始めておったハト通信も平気でやってのけておったじゃろう。
まもなく、鉄砲という新しい兵器を大量に使用して成功した信長が、桶狭間の大勝利においても、ハトという当時、他の武将が活用しなかった通信の媒体をもって、それを成し遂げていたとしたら、わしら愛鳩家にとっては、大いに痛快な事柄ではあるがのう。
一五〇〇年代の前半は、ヨーロッパの通信用のハトが、大きく改良されていた頃であり、中でも主に「ペルシャ鳩」と呼称された品種が再生を極めておった頃でもあるぞ。
おっと残りが少なくなったのう。ではこの続きは、次回に語るとするかのう。
(この稿、続く)