連載3-27、日本鳩レース界の歴史
国内への渡来 その十一
さて前回は、日本にハトの通信方法が始まった頃の話じゃったの。
もっとも、せっかく芽生えたハトによる有力な通信方法が、如何に為政者の方針がそこにあるにせよ、容易に消去されて、たちまち影が薄くなってしまうには、自然界の生態系によるのも、大いに影響を与えたに相違ないことも、考慮しなければなるまい。
つまり、当時のハト通信に用いられたハトは、カワラバトに相当の改良が加えられていたとしても、まだ完全に家禽化されたものとはなっておらず、したがって、自然界のあらゆる法則に縛られたハトであったろう。
日本には原種となったイワオバトはもちろんのこと、広い意味でのカワラバトすらも、もともと全く生息しておらなんだ。気候も風土もカワラバトの生息のために、決して適正ではないのじゃ。
そこへ迎え入れられた野禽に近い状態のハトたちは、優勢な子孫を残すことはおろか、代を経るに従って、たちまち劣勢化して、充分に通信の用をなすものがなくなっていったことも考えられるのう。
それと、もう一つ。
全く逆に、ハヤブサやタカなどの猛禽類の生息には、日本はまさにうってつけの土地柄であったことじゃ。
タカ類の中には、留鳥の性質のものも渡り鳥的なものもおるが、いずれにせよ、複雑な海岸線に恵まれ、豊かな緑に覆われ、四季が豊かで野鳥の宝庫である日本列島は、適当なタカ類の本来の生息地であったのじゃ。
留鳥性のものもおれば、北方から南下してくるタカ、南方から北上してくるタカ類が跳梁跋扈する、まさにタカ類の楽園であった。
放っておいても、野禽に等しい通信用のハトたちは、自然の力に追いまくられて、タカ類の脅威にさらされて、自滅する運命にあったともいえるのう。すなわち、ハト通信が飛躍的に発達していく素地は少なかった訳じゃ。
それに加えて、幕府や豪族たちが鷹匠をおき、鷹狩りを制度の様にして行っておった。ヨーロッパ各国、とくにフランス、オランダ、ベルギーのような国土がほとんど平坦地で、猛禽類も少なく、気候風土も適正で、ハトの繁殖を促進させるような状況とは、かなり違うものがあったと考えるべきであろう。ここに、日本におけるハト通信が脚光を浴びずに来た理由の一つがあるじゃろう。
おっと、残り頁が少ないようじゃ。ではこの続きは、次回に譲るとするかのう…。
(この稿、続く)