連載3-26、日本鳩レース界の歴史

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このコーナーは、会員の方からの寄稿や過去に掲載された本誌の記事を元に、伝書鳩及び鳩レースの今昔を鳩仙人の語り口で掲載します。本稿は本誌で連載された「日本鳩界の歴史」(81年4月から連載)を引用・改編しています。

国内への渡来 その十

鎌倉時代、鷹狩りの手法は、再びハト狩りのための実践用として、著しく向上しておった。そのため、秘密の通信手段としてのハト通信も効率は低下し、実用通信として、顧みられることのない時期がしばらく続くこととなるのじゃ。

しかし、この時代の平穏は、元寇によって破られる。1274年の文永の役と1281年の弘安の役のことじゃ。

政府の事業として、各都市間をハト通信網でカバーしていたバビロニア王国を完全に侵略して、ハト通信を廃絶させたモンゴルが、国号を元と改め、中国大陸の平原に覇を唱えての日本攻撃じゃ。

元及びその同盟国の大軍は、バビロニアで得た知識も加え、武装しておった。当時のハト王国・バビロニアのハト通信の技術をさらに進歩させた活用方法も修得しており、それは大型軍船を基地とするハトの移動通信じゃ。この時、鎌倉幕府は再び、ハト通信の重要性を見直すこととなる訳じゃなあ。

バビロニアで戦利品として捕獲した、優れた鳩たちを元軍は使用しておった。これが、鎌倉幕府や御家人たちを大いに刺激することとなったのじゃ。

やがて鎌倉幕府も終焉を迎え、後醍醐天皇が起こした建武中興期の戦い(1300年代の前半)となるが、播磨の山間部で新田義貞の大軍を悩ませた赤松一族の好守備、有名な千早城で足利の大軍を相手に支え続けた楠木正成の防戦ぶりには、籠城軍にとって格段に有利な鳩の活躍を十分に偲ぶことが出来るのう。

移動鳩舎によるハト通信が未熟であったこの時代においては、遭遇戦でのハトの利用は難しかったに違いないであろう。しかし、籠城による戦いの場合には、攻城軍の陣地深くに潜入した少数の斥候兵による鳩通信によって、相手方の配備状況や行動を隠密裏に報告する方法は、まさに最高の情報伝達方法であったことじゃろう。

時代を画する、いくつかの激しい戦いの後、足利時代(室町時代)という平和にして優雅な新しい時代が巡ってくるのじゃ。建築様式も改まり、茶道の芽生えも見られた新しい文化が台頭していったのじゃ。

この頃は、1467年に応仁の乱が始まるまでは、戦争らしい戦争もなかった。したがって、ハトが公式に通信用に利用される機会もなくなってきておった。

これには、ハトはもともと危険な通信法であるという考えが基本にあり、一般に流行させてはならないという思惑による禁止令と、ハト通信を実際面において抑え込んでおこうという鷹狩りの技術向上とが、一層、鳩の出番をなくしていったものと考えられるぞ。

おっと、そろそろ頁も終了じゃ。ではこの続きは、次回に語るとするかのう…。

(この稿、続く)

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