連載3-23、日本鳩レース界の歴史
国内への渡来 その七
以前に述べたように、7つの仮定を基に、国内への伝書鳩の渡来について、検討を進めてきたわけじゃが、多少の疑問点があるにしても、それらの仮定がどれも該当せず、「(伝書させる目的で)日本へ鳩が渡来してきたのは、もっと以前である」と考えても良さそうになってきておる。
その時期は、早ければ、鳩を「お使い」とする八幡宮の縁起にある神功皇后の三韓征伐の時であるかもしれぬ。神功皇后が史実上の人物ではないとする説が有力ではあるが、それによらなかったとしても、同時代(四世紀末)に日本が朝鮮半島を北方まで侵略したことは、高句麗の好太王碑という記念碑により明らかじゃ。その碑によると、それが391年であったことが明白となっておる。
この時期は、忍術が新羅から渡ってきたとされる頃と重なっており「朝鮮半島の三韓時代に渡来した」とする加茂儀一著の「家畜文化史」の示すところでもあるぞ。
そういった古い時代に、実は日本に渡来しており、その後の無数の戦闘、合戦、城塞攻防戦などにおいて、通信鳩の特性は次第に認識されてきた一方で、その抑止戦術たる「鷹狩り」も次第に発展し、鳩が通信の目的を達成できる部分は、狭められていったのじゃ。
その後、時代によっては、鳩の利用法すら忘れ去られておる時期もあったが、習慣としての鷹狩りだけは、鳩通信の妨害手段であることが言い伝えによって残されてきた…、というところが真相ではないかのう。
こうして、鳩による通信は、しばしば大衆の、あるいは為政者側の記憶からも遠ざかり、鷹狩りだけが残り、一般での鳩飼育禁止と鷹狩り禁止の措置だけが、昭和の時代を迎えるまで残ってきたのではないじゃろうか。
これはあながち、わし一人のよがりごとでもないのではないかのう…。
さてさて、ようやく資料がない時代の日本鳩界史を整理できる原点が見つかり、わし自身も納得することが出来たわい。これ以降は、四世紀末の渡来説に従い、述べていくことにするかのう。
とはいえ、ここで一旦、小休止じゃ。では次回、この続きを語るとするかのう…。
(この稿、続く)