連載3-14、日本鳩レース界の歴史
日本への伝書鳩の渡来 その四
さて前回の続きで、中国大陸での鴿(ハト)の話じゃ。中国には、三大兵法の書として、孫子、呉子、そして六韜・三略(りくとう・さんりゃく)というものがあるのう。
六韜・三略が相当に細かい戦術にまで指導が及んでいるというので、わしは何かその中で軍用通信に供する鳩についての手掛かりがつかめぬものかと、念のため、始めから終わりまで、これを素読してみたのじゃ。
すると周の武王の問いに、太公望は次々と懇切丁寧な回答をしておった。
例えば、「城から四里ほど離れたところに、わが軍の塁を造り、鐘、鼓、旗をすっかり並べて張り出し、別軍は伏兵として待機させ、塁上には大弓を積んで、百歩ごとに突出門を造り…」というような次第で、延々と続いておる。
「こっちには何人、何歩ごとに配置して、あっちには何十人ずつをどのように伏せさせておいて…」と、ばかばかしいほどに詳細にわたる戦技、戦術書なのじゃが、斥候や伝令(人間)は出てきても、森の向こうからでも、河の対岸からでも、堀割りの彼方からでも、城壁の陰からでも、さては城郭の中からでも、来信を受けられるハトの利用については、ついに一行半句もなかったのう。
周時代といえば、釈迦や孔子の生まれた頃で、まだハトによる通信は考えられていなかった…、と言われればそれまでじゃが、六韜も三略も、実は太公望の作でも周時代の編でもなく、太公望の名声と権威を拝借して漢の時代(紀元0年前後)に書かれたものであろうという説が有力なのじゃから、あながち論外にされては困るぞ。
とにかく早くから、儒教や仏教の影響を強く受けた中国大陸では、勝つため、あるいは利益のためには、ビーナス神のお使いであろうがなんであろうが、割り切って使わせてもらうといった風潮のヨーロッパやその周辺の人たちとは違って、生死をかけた戦場にあっても道義心や正義感にもとる方法は慮外とされておった。
したがって戦術書に現れることもなく、鳩による通信技術は、実用的には伝わらなかったのではあるまいかのう(これも十二世紀ころまでとわしは考えておる。この点については、また後述するぞ)。
この儒教と仏教による思想は、当然のこととして、日本にもあらわれてきておる。
その結果と言いたいのじゃが、日本におけるどの戦記を見ても、わしの知る範囲(まあ狭いものじゃが)では、表面に出てこぬのじゃ。
おっと頁が少なくなってきたようじゃな。ではこの続きは、次回にまわすとするかのう…。
(この稿、続く)