連載3-28、日本鳩レース界の歴史
国内への渡来 その十二
さて前回の続きじゃが、鷹狩りの目的の一つには、ハト通信の抑止があったとすれば、簡単にタカによって、制空権は奪われてしまうのう。
ハトを駆逐して完全に空をタカが制してしまうと、鷹狩りの大きな目的が失われ、ひとりでに鷹狩り自体も飽きられて、やがては廃れていき、数十年、あるいは百数十年が経過して、再び戦乱が起きるとハトの通信が陽の目を見ることとなる。日本の長い歴史の側面には、ハトとタカが交互に注目される、このような繰り返しが秘められておるのではないかのう。1467年に「応仁の乱」が始まると、百年もの長い戦国の時代に入る。しかしこの長い動乱の時期は、どうやらハトによる通信が忘れ去られていた時期のようであるのう。
足利時代より以前の戦いには、ハト通信を想像させる何かが、常にあったと思える。なぜに、この長くて厳しく、深刻な戦国時代においては、その痕跡さえとどめていないのであろうかのう。
それどころか、むしろハト通信の存在を否定する材料の方が多いのが実状じゃ。
ちなみに、わしは東京の生まれじゃが、両親も連れ合いも長野県出身となっておる。いずれも川中島に近い土地の出であり、わしも子供の頃はよく遊んだものじゃ。
上杉謙信と武田信玄の決戦場で知られる川中島は、今では当時とは相当に川の流れが違ってしまっておるというが、武田信玄はこの川中島の東方に海津城(松代城)を築き、上杉方の南下を食い止める拠点としたらしい。
海津城は、その東から南一帯に山を持っておるが、すぐ南の一段高い山(海抜843メートルほど)は今でも、「ノロシ山」と呼ばれておる(第二次世界大戦中に掘った松代大本営予定トンネルは、この麓一帯にめぐらされておるぞ)。
さらに坂城町の葛尾山頂、和田峠近辺、八ヶ岳近辺と、武田の本拠である甲斐府中(甲府)へと、ほぼ一直線にのろし台が続いておるが、海津城から甲斐の府中まで、のろしによる伝達時間は、およそ二時間であったというぞ。直線距離にすれば、百キロ以上じゃが、険しい山岳地帯での二時間じゃからのう。これは、相当に早いと思うぞい。
現在のレース鳩ならば、互角に競えるかもしれぬが、当時のハト通信では、遠く及ばないところじゃろう。
のろしによる伝達は、往復通信が可能じゃ。しかし、ハト通信によるような、詳細事項についての伝達は不可能となるのう。
おや頁が尽きてしまったわい。ではこの続きは、次回に語るとするかのう。
(この稿、続く)