連載3-25、日本鳩レース界の歴史
国内への渡来 その九
さて日本の文献には「古事記」にも「日本書紀」にもハトは表れてこぬが、ちょうど、同時期である大陸の唐の玄宗皇帝の時代(712年即位)には、当時の宰相の経歴を持つ張九齢らの書物に、ハトによる通信がはっきりと書き残されておる。
こうして、ハト通信が戦争に利用されるとなると、当然のように、積極的に対抗手段が取り入れられるようになるものじゃ。これが古くから行われておる鷹狩りの手法の向上じゃ。鷹狩りの名人といわれる源斉順なども現れ、鷹匠の地位も目覚ましく高まった。
この時代には、ますます良質の伝書鳩が日本へ導入され、また倭寇などによっても日本へ持ち帰られておったが、同時に鳩の天敵である猛禽類の優良品種の導入も相次ぎ、ハト通信の抑止力となる鷹狩りは、ますます盛んになっていったのじゃ。そうして、平安時代から鎌倉時代にかけて、鷹狩りの手法に多くの流派が生まれるに至るのじゃ。攻防戦が展開されるとなると、防衛側は城塞の内外に鳩舎を設けて、万全の通信網を用意し、攻撃側は敵の城塞を取り囲み、鷹を手にした多数の鷹匠を包囲状に配置したであろうのう。
ハトでの通信による成功例が頻発し、戦いの勝敗が左右されるようになると、必死になって鷹匠陣を完備させることになったじゃろう。これが有効に鳩を捕えられるようになると、事実上、ハト通信は機能しなくなるのう。
当時の伝書鳩は現在の様に秀でたものではなく、スピードも耐久性も遠距離性もなく、訓練法もたかだか知れたものであったろう。そのせいか、やがてハト通信が一時、廃れる時がやってくるのじゃ。少なくとも平安時代が、その通信用の鳩にとって不遇の時代であった気がするのう。保元・平治の乱は極めて極地での戦いであり、一連の源平合戦(1183年前後)は、ほとんどが遭遇戦であって、ハトの利用の余地がなかったと想像されるのじゃが、事実上、使用されていなかったであろう。
しかしながら、幾つかの合戦を行ったことによって、源頼朝はハト通信に恐れをなしたに違いない。特に幕府を鎌倉において腰を落ち着けた後は、その防衛のためにも、その復活を考えたことであろう。
用心深いといわれる頼朝のことじゃ。御家人たちには鳩を飼わせないため、極秘裏に飼育・訓練をさせて、さらには、いざという時のために鷹匠を充実させておった。それが、富士山麓での「巻き狩り」である。平安時代には、主に遊びとして定着しておった鷹狩りを実戦向きに復活させた訳じゃ。
時に、ヨーロッパにおいては第一次十字軍の遠征(1096年~1099年)での軍用鳩の活躍期を経て、バビロニア王国では、各都市間においてハト通信網が張り巡らされた頃でもある。
おっと、頁がなくなっておった。ではこの続きは、次回に語るとするかのう…。
(この稿、続く)