連載3-15、日本鳩レース界の歴史
日本への伝書鳩の渡来 その五
さて前回の続きじゃが、前稿で述べてきた私の推理は、帰するところ、日本における伝書鳩の利用は江戸時代から始まるものであって、資料関係を見合わせても、ごく自然で読む人の納得も確かに得やすいのじゃ。
これは資料にはならないのじゃが、昭和五十五年九月第一刷の堺屋太一氏の小説「巨いなる企て・上」にも、この大方の納得の得やすい時期に合わせて、大意次のように書いておる。
「慶長三年に豊臣秀吉が死ぬと、天下の政治は、五大老、五奉行が取りしきることになり、その第一回全体会議が、翌年の正月七日伏見城内においておこなわれた。そのころ、堺の商人たちは、手旗信号を利用した珍しい通信手段の実用化をはじめた。そのうちの一人、津田宗凡(宗及の子)は大阪支店である天王寺屋を拠点として、石田三成に情勢を早急に送るため、この方法を使っていた…」
慶長四年といえば、1599年よのう。関ヶ原合戦の前年であり、まさに江戸時代の幕開けというわけじゃ。
また以前、テレビの番組で忍術の紹介をしておった。忍術者がハトを使って連絡する時代劇を見たことがあったので、興味を持って見ておると、「忍術は諜報と謀略をおこなうために盛んに情報の収集をした。そのために、忍者として第一に要求されるものに、1日150キロを踏破する脚力があった。情報はこの足で運んだ。密書などの書状を持つことは、機密漏洩を防止するため、ほとんどなく、たいてい文意を暗記した。やむを得ず文書にする場合は、それを「水出し」か「あぶり出し」にし、文字は特別の暗号文字―、例えば、「イ」は「杷」と書く、などの工夫を凝らしていた」
また「忍術は朝鮮半島の新羅から帰化人によってもたらされ、戦国時代に完成を見た。最盛期は江戸時代の初期まで続く」としておった。
忍者も、もっぱら歩行術でカバーしたらしく、ハトの使用は紹介されなかった。
堺屋氏の小説もテレビの忍術も、消極的ではあるが、伝書鳩の江戸時代登場説と一致しておる。
ところが、江戸時代から、という説は、世界の歴史を少し詳しく眺めてみると、あちこち傷だらけでいくつかの矛盾さえも感じられる説得力の乏しいものなのじゃ。
では、いよいよ説得力の乏しい点を浮き彫りにしながら、これを読んでくれておる皆さんと共に、新しい推理の展開を試してみるとするかのう…。
おっと、そろそろ頁が少なくなってきたようじゃ。ではこの続きは、次回に譲るとするかのう…。
(この稿、続く)