連載3-40、日本鳩界の歴史

欧州の発展 その五
前回は、薩英戦争の時の文献「西郷隆盛のすべて(その思想と革命行動)」(浜田尚友著)から、戦時の通信方法の記述を抜粋したのう。
この文献からは、イギリス艦隊の攻撃を予期して万端の用意は尽くされていても、ハト通信は全く利用された気配がなかったのじゃ。さらにもう一点は、同書によると、その一年前の文久二年(一八六二年)の西郷隆盛の役職が、あまり聞いたことのないものじゃったが、それが面白いのじゃ。
その役職は「徒目付鳥預庭方兼役」というものじゃ。徒目付はわかる、歩兵の監督である。鳥預庭方という役目は、あまり聞かない。庭方を御庭番とすれば隠密になってしまうが、おそらく査察官のような立場だったのではないじゃろうか。それにしても奇異なのは、鳥預であろうのう。鳥が鷹を指すものとすれば、鷹匠支配であるかもしれぬ。薩英戦争の記述を見ても、ハトは出てこないから、伝書鳩を使った連絡将校というわけではあるまい。
要するに、徳川幕府が制度化した「鳥見役」と、おそらくは同義語であろう。薩摩藩でもハトを通信用に積極的に使用はしていなかったが、ハト通信の抑止力でもある鷹の訓練の制度化を利用して、治安維持のための特高警察を保持していたことになる。
日本において、旗振り通信(いわゆる手旗信号)が公に許可されたのは、慶應元年(一八六五年)九月のことじゃった。冊子「鳩の世界」の大正十四年一月号には、次のような記事が掲載されておる。
「慶應元年九月、たまたま英仏蘭の公司等、軍艦に乗じ、条約勅許を迫らんとして、兵庫港に来りし際、尼ヶ崎か六甲山上の旗振通信手が、早くも之を沖間に発見し、右旗振通信によって、其急を時の所司代に報ぜしより、京都米会所の会頭・北條某なる者これを機とし、右の功に愛で、これ迄禁止しある旗振通信を公許せられたき旨、願い出たる結果、ここに初めて解禁せらるることとなり…」
慶應元年といえば明治維新(一八六八年)の三年前である。やっと旗振通信を一般で行うことが認められたのじゃ。
民衆から鳩の飼育を奪ってきた長い封建体制は、伝書するハトの改良促進をはばみ、良品種と飼育技術の向上によって得られたはずの利便性のある通信方法を日本から失わしめていたのじゃ。江戸時代の鎖国政策は、日本の近代化の一助になるはずであったハト通信に目を向けることなく、この時代における通信伝達の方法は、同時代における通信伝達の方法は、同時代のヨーロッパ各国と比較して、著しく劣るものとなっていたのじゃ。
ロスチャイルドのハトが、ワーテルロー付近からドーバー海峡を越えて、ロンドンまで迅速に帰着し、ナポレオン三世(在位・一八五二年~七〇年)の時代には、すでにハトレース用には、すでにハトレース用の記録時計が出来たというヨーロッパからは、はるかな遅れを見せておったのじゃ。
おっと、頁がなくなってきたわい。この続きは、次回に譲るとするかのう…。
(この稿、続く)